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これまでの滑稽俳句大賞受賞作品
第一回 第ニ回 第三回 第四回 第五回 第六回 第七回 第八回
第九回 第十回 第十一回第十三回 第十四回 第十五回
第十三回滑稽俳句大賞決定
 
山口県 吉浦百合子
お日様へじやんけんぽんと蒲公英咲く
風船を生きもののやうに子に渡す
春の風赤子のおなら持ち去りぬ
緑蔭のこの雄大な握り飯
声までもずぶぬれにして水遊び
心太すとんと噂つつぬけに
口開けてランドセルにも夏休み
木の枝にパンツの乾く水遊び
嬉しさの種とばしたる草の花
芋の露ひとつひとつが水の星 


受賞の感想
 滑稽俳句大賞には第九回で初めて応募し、次点をいただきました。第十回と第十一回は入院しており応募できませんでした。この度、三回目の応募で大賞をいただくなんて、夢にも思っていませんでした。ですから、入選の通知を受け取った時、頭が真っ白になりしばらく何も手に付かずぼーっとしてしまいました。

 応募作品は、昨年の一月頃から少しずつ準備していました。一年分の句の中から、十句選句するのは大変でしたが、大賞をいただいたことで、滑稽俳句というものが少し分かってきたような気が致します。

とは言いましても、まだまだ未熟ですので、勉強してまいりたいと思います。選者の先生方、本当にありがとうございました。 

 
奈良県 竹縄誠之
手相よりすでに長生き桜餅
先週は四国にゐたといふ桜
蝉どもを叩き起こして出勤す
縄電車運休決める暑さかな
しばらくは月に居ますと置手紙
実石榴や悪い奴ほどよく笑ふ
遺伝子の三代歩く七五三
秋田美人ゐるにはゐるが雪深し
一瞬を逃さず笑ふ初鏡
金運とその他を願ふ初詣 


受賞の感想
 この度は、名誉ある賞をいただき、ありがとうございました。初めての応募でしたので、びっくりした次第です。俳句は、六十七歳から始め、現在会社のOBが集まる俳句の会に参加していますが、ユーモアを取り入れた句は、なかなか受け入れてもらえず、俳句の世界に少し窮屈さを感じ始めていました。

 そんな中、本阿弥書店の総合俳句誌「俳壇」に、滑稽俳壇のコーナーがあることを知りました。滑稽さの視点から四季や社会を十七文字で表現する楽しさを知り、俳句の世界が広がったように感じています。 もうすぐ古希を迎えますが、今後も俳句の重要な要素である「滑稽」を忘れることなく、俳句を作り続けていきたいと思っています。

 
三重県 小林英昭
朧夜をポタージュにして温まる
春眠のひつじ三匹ゐれば足る
見つかつて照れ笑ひするごきかぶり
母の日に父の日とつてつけてある
縁日に金魚一匹身請けする
薄味に仕上がつてゐる秋の風
鯊釣れず顔がだんだん鯊になる
風景を哀しくさせる枇杷の花
凍星の解凍一分チンをする
枯蓮の水面万策つきてをり 
 
愛媛県 日根野聖子
世の中をせつせとぼやき春の蟻
土筆とは遠縁にあたるアスパラガス
あの世から誰か来さうな春の暮
ちぐはぐをスーツに包み新社員
ツンツンは娘にあらず山葵漬
出てこない歌詞はらららら春うらら
完熟となりし星より流星に
潔く切腹し過ぎる通草かな
つぶやきの粒のこぼれて草の実に
ひよつこりは突然でること鳰(かいつぶり) 
 
神奈川県 南とんぼ
引き寄せて抱かずに刈らる今年米
秋の寄席間引きの客に手を抜かず
保護犬は人間ぎらい赤のまま
菊人形大笑いして果てにけり
泣きじゃくる児に蓑虫のフラダンス
テレワーク写らぬ位置に今年酒
初詣御先祖様は遥拝で
笑うならウフフかオホホコロナの新春(はる)
落下準備ととのえている寒椿
はるよこい常の春来いはーるよこい 
 
山口県 藤兼雅幸
巻き寿司の端っこが好きピクニック
流し素麺対面に来る左利き
見ておられますかあなたも今日の月
初紅葉染まり切れない老いの恋
回覧板小春を乗せて回しけり
転寝のまま逝くもよし日向ぼこ
人間にまさか喰われるとは海鼠
福引やすぐ前の子が鐘鳴らす
恙無く一種足らぬ七日粥
屋台出て楊枝でなぞる寒北斗 
 
審査方法と結果

 十句を一組とし、一組を一作品として十句すべての出来栄えで評価、審査を行いました。応募者総数九十六名、九十八組すべての作品を、無記名で各審査員にお渡しし、ご審査いただきました。一位から五位までを選出いただき、一位は五点、二位は四点、三位は三点、二位は二点、五位は一点として集計しました。その結果、以下の各氏が受賞されました。


 最高得点の十五点で大賞を獲得したのは、吉浦百合子でした。次点は、大賞とわずか一点差の十四点で竹縄誠之でした。入選は、十点の小林英昭、八点の日根野聖子、六点の南とんぼと藤兼雅幸でした。


 以下、五点が遠藤真太郎、尾倉雅人、大越秀子、峰崎成規、石田賢吾、松村正之、四点が工藤泰子と田中早苗、三点が平野暢行、三上通而、小林英昭、八塚一、二点が大黒裕明、林道代、有本仁政、木村弘治、一点がたろりずむ、柳紅生、田村隆雄でした。

 
審査経過と講評
「本質に迫る滑稽を」
「軸」主宰・全国俳誌協会会長 秋尾敏

 滑稽にもさまざまなジャンルがあって、一般的に、下ネタ、言葉遊びなどは下等で、ナンセンスやシュールなどが文学的には高級と見られることが多いのだが、そういうものでもない。
 題材は下ネタでも、それが生命の本質に触れていれば、人間存在の根源から立ち上がる言葉のエネルギーを持つし、言葉遊びが言語思考の謎の本質に迫ることもある。逆に質の悪いシュールほど下らないものはない。つまり、どんな手法にも上下があるということだ。
 しかし、俳句では、「一般論」はつまらないと思う。「一般論」では川柳になってしまう。俳句は、こんな事象があった、こんな存在があったということを個別に語るべきである。
 <日脚伸ぶ点と点から線と線>の十句は、俳句らしさとは何かということを迫っている気配があって志の高さを感じた。伝わる伝わらないのぎりぎりで語っている感じが好きだ。
 <嫌いだと言われたことのない苺>の十句は、逆に徹底して伝わる世界で、このとぼけ方もひとつのやり方だろう。
 <巴里の灯の八時に消えて星流る>の十句は、一番面白かったが、どうにも評価不能の句があり、一位には推せなかった。

 
「対象への温かな視線」
「帆」主宰 浅井民子

 コロナ禍の閉塞感が続く今、滑稽俳句を詠み、そして読み、俳諧味を味わうことが誠に貴重なものと思われました。種々の場面を切り取ったバランスの取れた作品が多く、千句近い応募作品を何度も繰り返し読みました。 詩とは何か、滑稽、ユーモア、アイロニーとは何か、人それぞれの感性の違いが表れます。
 優れた滑稽俳句に通底するものは、自分自身も含め詠む対象への温かな視線、肯定感ではないかと思います。
 洗練された作品が多く、それぞれに読み応えがありました。

 
「滑稽俳句は滑稽詩」
「沖」同人  上谷昌憲

 今や世は、どのマスコミも新型コロナで持ちきりである。滑稽俳句の世界もこの一年は、コロナの影響を避けて通れなかったのではないだろうか。
 そんなご時世にあって、今回も多くの傑作にお目にかかることが出来た。毎回思うことであるが、詩を感じない句に感動させられることはない。また、時代がどう変化しようと、滑稽俳句は滑稽詩だという考えに変わりはない。
 「母死なば今着給へる袷欲し 永田耕衣」。有名な俳句である。一見不謹慎な内容に思えるが、実はここに母を想う作者の深い情愛が込められているのだ。私が上位に推した作品は、時代の空気を敏感に捉えながら、人間が本来持っている不条理な情念や行動を詩に仕留めた俳句が多かった。言葉そのもの面白さに自分の感興を託して一句に仕立てたような作品は見当たらなかった。また常套を脱しようとする意欲が先走る余り、その分、理が空回りして説明臭くなったような作品が少なくなかった。
 想定内のペーソスは、陳腐なマンネリズムより始末が悪い。滑稽な言葉の羅列や駄洒落で他人様の膝を打たせるのはなかなか難しいものだ。

 
「俳諧味ある作品」
「山彦」主宰・山口県俳句作家協会会長 河村正浩

 先ず十句が平準化されていること、その上で滑稽句と認められる句の多い作品を上位五組とした。
 一位に押した作品では、<地下鉄はソーシャルネット嫁が君><テレワーク蟻はなじめず穴を出づ><不夜城の街に蠢く火蛾の密>など、今のコロナ禍を小動物でもってうまく言い得ていた。又、<誤字を消すボールペンあり敗戦忌><竈猫身過ぎ世過ぎを遠く聞く>などもあり、何れも批評が根っこにある。二位以下に押した組では、<朧夜をポタージュにして温まる>の感性に感心し、<問診にちよつぴりの嘘万愚節>に思わず微苦笑を誘われた。
 滑稽は意識して詠むものではなく、俳句が持ち続けている本質的な味わいである。それが俳諧味ある作品と言えるであろう。

 
哀しさとおかしさの感応
「野火」主宰  菅野孝夫

 俳句の「滑稽感」は、狙って得られるものではない。おかしくしよう面白くしようという作者の狙いが、最初から見え見えでは興醒めである。全作品に目を通して感じたことだが、事柄の面白さに頼りがちで、面白いことを探すのに汲々としているように見受けられたのは残念だ。

 川柳と俳句の違いは何かと端的に言うのは難しいが、結論まで言って笑いを誘うのは俳句とは違う。「切れ」から生じる余韻がここでも重要な働きをする。滑稽俳句は真面目なもので、物事を深く掘り下げて発見した事実から滲み出てくる、そこはかとない哀しさが可笑しさと感応したときに名句となる。大口開けて笑い転げるようなものは滑稽俳句とは程遠いものだと思う。
 
滑稽俳句であること
子規新報編集長 愛媛新聞俳壇選者  小西昭夫

 毎回のことではあるが、一句だけで評価すると、また違った結果になるのだと思う。ただ、審査のコンセプトは、「十句一組を一作品」として審査をする。十句の出来栄えをトータルに評価するのである。その際に、滑稽俳句であるかどうかということとともに、俳句として読めるかどうか、ということも大きな要素になる。受けを狙って単に可笑しくしただけの作品や、読みの広がらない作品は、振るい落とすことになる。
 審査員の滑稽俳句や俳句に対する考え方もそれぞれであろうから、どういう結果になるのか、審査に関わった一人としても、審査結果は興味深い。

 
諧謔の効いた作品
「春耕」編集長  蟇目良雨

 今回は、世相を取り入れた諧謔の効いた作品が多く見られ、全体のレベルが上がったと感じた。 一位に推した<雀の子君らも取れよディスタンス>の十句は世の不幸を笑いで吹き飛ばしていて愉快であった。

 
 
総評「令和の滑稽俳句
滑稽俳句協会会長  八木 健

 千句近い応募作品を読み終えて心地よさに浸っている。滑稽俳句大賞第十三回にして、現代の滑稽俳句とはなにかの命題に迫れたのではないか。百二十年前に佐藤紅緑が編んだ滑稽俳句集には見られない滑稽が創出されている。

 滑稽の「滑」は楽しいことが淀みなく流れ出ることを意味しているが、大賞の吉浦百合子氏の作品には楽しさが描かれている。まさに滑稽の本流である。やすやすと擬人化できているのもいい。俗な言葉をさりげなく使っているのもよい。「おなら」「ずぶぬれ」「噂つつぬけ」などである。笑いをとろうとして奇想天外な表現をしたりせず、肩の力が抜けて素直な表現である。声をずぶぬれにしたりランドセルに夏休みを思ったり、童心の感性が実に新鮮である。  令和の時代の滑稽俳句大賞の上位作品は、将来、『令和の滑稽俳句集』として出版したい。

*今回、大変残念ながら、小町圭先生、嶋田麻紀先生は体調不良のため審査を辞退されました。