馬鹿は死ななきゃ治らない  
   

 

 杉 弘光が語る 祖父広沢虎造の芸と生涯

 


第四章 虎造映画興行

 人間の縁とチャンスはどこに転がっているか分からないものです。私の手元に古い都新聞のスクラップがあります。日付は昭和8年4月12日。
「横電(東急東横線)と圓タク(*1) 衝突 廣澤虎造氏等の奇禍」  という見出しとともに、当時35歳の虎造の写真が大きく掲載されています。この大事故で、運転手は重体、番頭は死亡。虎造だけがかすり傷で助かりました。当時、浪曲師が新聞に載る事が少なかったために大変話題になり、この一件以来、虎造の名は東京中に知れ渡ることとなり、浪曲番付の上でも前頭筆頭に据えられました。


「次郎長伝」が好評、ラジオ、レコードの普及。所属の浪花家興行社をはじめ、永田貞夫、山口登、吉本せいなどによる本格的売出しが始まったのもこの時期でした。


昭和12年春。「東洋一の五千人劇場」といわれた浅草国際劇場が開場しました。この大劇場で虎造の独演会を永田貞夫が計画しました。それも4日間昼夜、延べ4万人動員の壮大な計画でした。浪曲の記録では大正時代に、日本一の収容人数を誇った蔵前国技館で、三代鼈甲斎虎丸が3日間で1万人を動員したのが最高でした。見事、興行は大成功しましたが、今日のようにメディアが充分でなかった時代に、これだけの動員を記録した事は、虎造の人気もさることながら、永田貞夫が伝説の興行師と詠われた所以と思われます。



「清水港」1939年(昭和14年)日活より 片岡千恵蔵と虎造(当時40歳)


翌年、昭和14年。虎造は日活「清水港」に出演。浪曲師が映画に出演する場合、役者としては端役で、浪曲のみを「出語り」として登場します。しかし、今回の出演は役者としての動きが可能とみたマキノ正博監督による大抜擢でした。しかも、共演者に片岡千恵蔵、月形竜之助、沢村国太郎など一流の役者が勢揃いしています。虎造は「三下の虎三」というコミカルな役柄を器用に演じました。また、東宝では「初笑ひ国定忠治」で横山エンタツ、花菱アチャコと共演し、大阪で修行中の思い出話に花を咲かせました。



「銭形平次恋文道中」1951年(昭和26年)大映より 花菱アチャコと虎造(当時52歳)

昭和15年「続清水港 代参夢道中」(共演、片岡千恵蔵、轟由起子、美ち奴、沢村国太郎、志村喬)に照明部員広田&旅の浪花節語りというダブルキャストで出演。 虎造人気が上がって、良い事ばかりは続きません。


「口は禍の門、舌は禍の根」虎造浪曲の様な事件が起きました。昭和15年6月。虎造は九州に興行に出かけた際、地元の興行師から新興キネマの映画(女剣劇江川真知子共演)に出演を依頼されました。酒の上の話で、マネージメントの事など解らない虎造は「よろしくお願いします」と返答したのです。


東京へ帰ってすぐ、事務所にスケジュールの問い合わせがあり、事務所側は驚きました。当時、虎造の映画出演は吉本興業が行っていて契約上、日活、東宝以外の映画には出演できない状態にありました。双方の話し合いは着かず、8月15日山口登(二代目組長)と九州籠寅興行部との抗争に発展し、死傷者を出す大惨事となりました。結局、警視庁が仲介に入ってようやく手打ちとなりした。この事件は一浪曲師の興行権から組同士の面子を賭けた抗争として世間を騒がせました。



「次郎長三国志」1953年(昭和28年)東宝より 虎造、久慈あさみ、森繁久彌らとの珍しいオフショット


虎造の人気と存在は、虎造自身が考える以上に大きなものになっていました。戦後は、東宝映画でシリーズ化されました「次郎長三国志」(昭和27年?29年、全9作品)が大ヒット。この作品は浪曲師や歌手が映画に出演する先駆け的な作品として、現在でも記憶されています。このように昭和14年から戦後の昭和32年にかけて、虎造は37本の映画に出演しました。仕事も私生活も絶頂期を迎えようとしていました。


*1圓タク(円タク)大正末期に登場した「市内全域一円均一」という格安タクシー

写真1:「清水港」1939年(昭和14年)日活より 片岡千恵蔵と虎造(当時40歳)

写真2:「銭形平次恋文道中」1951年(昭和26年)大映より 花菱アチャコと虎造(当時52歳)

写真3:「次郎長三国志」1953年(昭和28年)東宝より 虎造、久慈あさみ、森繁久彌らとの珍しいオフショット


>>トップページへ
スポンサーサイト 
貞本病院
ハッピー薬局
ホルモン料理 焼肉 立花
不二印刷株式会社
スマイル宅建
末光祐一司法書士事務所
国際ホテル松山
リスクマネジメント愛媛
萬翠荘

梅岡文化倶楽部
掲載の記事・写真・イラストなど、すべてのコンテンツの無断複写・転載等を禁じます。