馬鹿は死ななきゃ治らない  
   

 

 杉 弘光が語る 祖父広沢虎造の芸と生涯

 


第三章 襲名苦難日々

 信一が広沢館に住込みで下足番として働き始めて。早いもので三月がたちました。信一はいつものように前座仕事を終え、まだ客の少ない高座に上がっておりました。そこへ虎春の師匠で「旦那」と呼ばれた大立て者広沢虎吉が入ってきました。戦前は浪花節の寄席を4軒も経営し、引退後はあの吉本興行の創始者吉本せいにその後を譲り、今日の発展の礎ともなったそうです。


「おい、虎春!今、高座へあがってるのは誰や?」  「はい、あれは私が連れてきた金田という東京から来たやつです」  「そうか、話があるからはねたら家に呼んでんか」  「はい」こうして、大師匠虎吉に認められた信一は芸名も広沢天華と改めて正式に入門を許されます。時に大正7年、広沢天華こと信一19歳の春のことでした。


 正式に弟子にはなったものの前座には変わりないし、第一この芸名はありがたくもなんともない。その間もまた師匠に呼ばれて、名前の話だと言われたんで、喜んで行ったら、「天華」  「はい」  「そろそろお前も1年になる。新しい名前をやろ思うんやが、ワシの可愛がっとる女の手褄使いに天勝というのがおる。それにあやかって広沢天勝ってどうや?」  「冗談じゃねえや。「天華」なんて中華屋みたいな名前は嫌だと思っていたら、今度は「天勝」これじゃまるでとんかつ屋だ!」  と、言いたいところだったが大師匠に逆らう訳にはいきません。渋々  「ありがとう存じます」  と頭を下げた信一 「なんや、天華?涙流して、そんなに嬉しいんか?」  「嬉しかないやい」  と、この芸名の件では二度に渡り、ガッカリさせられただけに、虎造という名跡を頂いた時には、 「ありがとう存じます。虎吉よりもいい名前と、ついうっかり口がすべりそうになるくらい喜んだそうです。


虎造そして、4年の月日を経て、虎造は東京に舞い戻ります。東京で襲名した虎造は浅草の初音会会主大谷三蔵の引き立てにより、市内の寄席に出演するようになりました。ある公演で助演した女流呑気家綾好が、虎造の浪花節と男っぷりに惚れ込んで、亭主の美弘舍東盛と娘のとみを紹介しました。これが縁で虎造はとみと結婚し、東盛(山田喜太郎)と養子縁組をして山田信一となりました。大谷三蔵、義父東盛たちのおかげで徐々に仕事は増えていきましたが、これという十八番の出し物もなく、寄席での公演の日々が続きました。




ある日、出番がなかった虎造はある寄席に立ち寄った。当時、人気絶頂であった講談三代神田伯山がトリを取って公演していました。そこで「清水次郎長伝」を聴いた虎造はその面白さに夢中になりました。その日以来、雨が降ろうが、風が吹こうが伯山の出ている席には必ず出向き、かじりつくように聴き入りました。そして、メモを取ったり、口を動かしたり、つぶやいたりと、その姿は周囲からみても目立つ存在でした。ある日、いつものように客席にいた虎造は若い男に声を掛けられました。「失礼ですが、師匠が楽屋までお越し願えませんかと、申しております」と告げられ楽屋に案内されると、そこにはあの名人神田伯山本人がいました。伯山は虎造を見るなり、「あなたはご同業のようにお見受けしましたが」そう言われた虎造はきまり悪そうに、「はい、私は広沢虎造という浪花節でございます」と言って下を向いていました。


しばらくの沈黙の後、伯山が一っ調子声を張り上げ、「私の次郎長伝は浪花節では玉川がお家芸で、勝太郎が演っているが、おまえさんには許した覚えがねえ。それに盗人みていにこそこそ人の芸を盗みにくるような奴には、二度と来てほしくねぇから帰ぇってくれ!」名人神田伯山にこうきっぱり言われた虎造はうつむいたまま無言で楽屋を後にしたのです。昭和2年。真冬の寒風が虎造に容赦なく吹きつけました。


写真1:昭和元年27歳の頃

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