
声調べどころか本人にすら会えず、断られた信一はがっかりてしまいました。後日談ですが、後年、次郎長伝で虎造が売れた時に応対に出た弟子がその時の事を覚えていて、師匠に虎造の入門志願を断った話をしたところ相当に悔しがって弟子に小言をいったそうです。
「重松だけが浪花節ではない」と慰めにもならない善さんの言葉と重い足取りで。「次は同じ木村派で重松の弟弟子初代木村重友にお願いしよう」と、こんどは神谷町の重友師匠の家に行きましたが、ここでもすげなく断られます。最後に東家小楽燕にも断られたとき「あ?俺にはなんて運がねぇんだ」とがっかりして家路につきました。
家に戻ると、父親はすでに他界し、家を継いでいた兄吉政は、近頃、信一が浪花節にうつつをぬかし、仕事に身が入らない事に小言を並べました。これ以上言う事を聴かないのなら大阪の弟の会社に面倒みてもらうから出て行けと言われたのです。いつもなら父親代わりの兄貴の小言を黙って聞いている信一でしたが、大好きな浪花節の師匠連中にことごとく弟子入りを断られて、もうヤケになっておりました。かくして江戸っ子のいさぎよさか、粘りのなさか、あっさり浪花節をあきらめ大阪へと旅立ってしまいました。
写真資料:1)虎造のアーティスト写真 2)大正8年(1920年)虎造20歳の頃
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